02|ウィーンに到着をしてから
What's えびちゃん留学記 ...
自分が感じる「違い」はなんなのだろう───
演奏の違いから様々なことを探求して行った留学時代と海外生活時代を振り返りながら、現地の情報もお届けします。ファゴット奏者で、指揮、講演、コンサートの企画、オーガナイズ、コンサルティング、アドバイザーなど様々な活動をする基盤となった海外留学とはどんなものだったのか。思い出すままに書いていきます。
Text by ...
蛯澤 亮
Ryo Ebisawa
茨城県笠間市出身。笠間小学校にてコルネットを始め、笠間中学校でトランペット、下妻第一高等学校でファゴットを始める。国立音楽大学卒業。ウィーン音楽院私立大学修士課程を最優秀の成績で修了。バーゼル音楽大学研究科修了。 ザルツブルク音楽祭、アッターガウ音楽祭、草津音楽祭などに出演。元・ニューヨーク・シェンユン交響楽団首席奏者。茨城芸術文化振興財団登録アーティスト。ファゴットを馬込勇、ミヒャエル・ヴェルバ、セルジオ・アッツォリーニの各氏に師事。 「おしゃふぁご 〜蛯澤亮のおしゃべりファゴット」を各地で開催、クラシック音楽バー銀座アンクにて毎月第四金曜に定期演奏、池袋オペラハウスにて主宰公演「ハルモニームジーク 」を毎月第二水曜日に開催するなど演奏だけに留まらず、様々なコンサートを企画、構成している。
ウィーンへ!家探しと手続きについて諸々…
「四月一日に渡墺するなんてエイプリルフールの冗談じゃないだろうな」
なんて地元の友人に言われたが、約束通りその日に渡墺した。数日前からヴェルバと連絡を取り合い、ウィーン空港にはヴェルバが迎えに来てくれることになっていた。
いま、振り返ることで改めて思うが自分は環境にかなり恵まれていた。着いて早々、取っていたペンションまでヴェルバが車で送ってくれ、車内から見える楽友協会やコンチェルトハウス、国立歌劇場、ブルク劇場など、親切に教えてくれた。そして眺める風景に「ああ、本当にウィーンに来たんだな」と実感させられた。
ヴェルバはとにかく面倒見が良い。ペンションの人と何やら話していると思ったら、楽器の練習をして良いかどうかまで聞いてくれていた。さらに近くの電気屋のチラシをもらって「明日はそこの電気屋でこのプリペイド携帯を買ってきなさい。そのあと私の番号にメールを一通送るように」と指示。その後、荷物を置いてまた下で待ち合わせということで急いで行くと、「そこでお茶しよう」と言って向かいにあるカフェに入った。ウィーンに来て初めて飲んだメランジェがこれだ。味は覚えていない(笑)。そしてショーケースにあったなんだかわからないケーキをご馳走になった。今思えばクグロフだった。
ヴェルバは面倒見が良いが、テンポが早い。一息つくと、明日は携帯を買ってメールをするよう念を押され、「明後日は家を見に行くぞ」と言って足早に去っていった。
翌日、さっそく携帯を買いに出掛け、ヴェルバに一報を入れる。ついでに、その日は少し散歩をして見ることにしたのだが、以前訪れたときとは印象がだいぶ違っていたので驚いた。実は、ウィーンに来たのは2回目で、高校生の時にオケ部の旅行で来たことがあったのだ。街を歩く人に黒人とイスラム系がかなり増えていたように感じた。
スーパーに寄って飲み物などを買うためにレジに並んでいると、レジの店員とおばちゃんが何やら揉めている。何を話しているかもちろん理解できないのだがどうやら険悪のようだ。すばらくするとおばちゃんが「もういいわ」と言うように去っていく。すると大柄の男性店員がブチギレて大声で叫びながらカートにおばちゃんが買おうとしていたものを投げつけていた。日本ではなかなか見られない光景。随分と喜怒哀楽の激しい国だなと思った。しかし、その後は他の客も何事もなかったかのように平然としていた。触らぬ神に祟りなしという感じか。それもそれでちょっと驚いた。
再び家探しと手続き
ウィーン三日目、前日にヴェルバから「明日は○時に迎えに行く」と返事があった通り、ヴェルバ夫妻が迎えに来てくれた。奥さんは小柄だが貫禄のある人で、大柄で何かと動き回るヴェルバとは対照的だった(笑)。
その日は、ヴェルバが知り合いづてに探してくれていた部屋を見に行くこととなった。エレベーターのない五階だったが、東京の家に比べたらとても広い。しかし、古い建物のため床は傾いているし、バスタブはなくシャワーボックスのみ。環境の変化には戸惑ったが悪くはないと思った。住めば都というが、実際にそうなのか試してみようと思った。
家が決まった帰り道、「来月からはこれと同じのを自分で買うんだよ」と、市内の電車が一ヶ月乗り放題になるチケット“Monatskarte”をヴェルバに買ってもらった。ヴェルバは本当に親切で“Monatskarte”だけでなく、何から何までを丁寧に教えてくれた。大学でレッスンをするときにどこでレッスン室を聞けば良いのか、オペラ座でどこが立ち見席なのか、ウィーンフィルの練習にも連れていってもらったり、本当に様々なことを。自分がもし大学で教えることになり、外国人が来たとして同じようにできるだろうか。この記事を書いて思い出すうちに、ヴェルバへの感謝の思いがあふれてきた。
さて、最初に住んだ部屋が日本とまず違うのは天井の高さ。例えば、電気が切れてしまって取り替えなくては行けない時、母国の天井は椅子を使えば届く高さだが、その部屋は脚立がないと届かないくらい高かった。ただ、すごく響く。練習してみると自分の音が大きく響き、なんだか上手くなったような感覚に陥る。リビングだとあまりにも響きすぎるので、狭い寝室で吹いてみたり、試行錯誤を重ねた記憶がある。
新しい場所に住んだら色々な事務手続きがある。まずは住民登録だ。日本と同様で区役所へ行き、手続きを行なう必要がある。私がここで幸運だったのは、大家さんが隣に住んでいてとても親切だったこと。住民登録の申請用紙ももらってきてくれて、どこに何を書けば良いかまで丁寧に教えてくれた。記入をする内容は日本となんら変わりはないが、宗教を書く欄があった。私が育った実家には居間に神棚と仏壇があり、墓地はお寺、裏庭には氏神様を祀る祠があった。大家さんに相談をしたところ、仏教徒で良いんじゃないかと言うので(仏教は有名だが日本の神道は知られていない)、仏教徒と書いて提出をした。宗教については、西洋音楽を学ぶ上でキリスト教の勉強も必要だろうくらいに思っていたが、この国では何を信仰しているかが非常に大切なことになるんだな、と感じた。
また、今ほど栄えてはいなかったが、当時でもネットは必要だった。大家さんにネットを申し込みたいと言うと、近くのお店に連れていってくれた。すると「オーストリアの銀行口座が必要」とのことで、その足で近くの銀行に行き口座を開設した。これにもオーストリア人の大家さんがいてくれたことが吉となった。あとから聞いた話だが、日本人が銀行で意地悪されてなかなか口座を作らせてもらえなかったとか、ネットがなかなか契約できなかったと言う友人がいたのだ。
その点私は、信頼できる大家さんの取り計らいにより、難なく開設できたのだから本当に幸運だった。
しかし、いつまでも先生や大家さんにおんぶに抱っこではいられない。生活が落ち着く間もなく、ドイツ語学校に入学をした。入ってからは、平日の午前は毎日ドイツ語の勉強をする時間と決めてみっちりと学んだ。日本人の知り合いも少なかった私はほとんどドイツ語しか話さなくなったが、これも海外留学で大事なことだと思う。ウィーンはもちろん、多くの都市では日本人留学生が多く、コミュニティもしっかりしている。現地語が話せなくてもなんとなく暮らせてしまう人もいるくらいに。しかし、その国の言葉に慣れるためにも、留学してしばらくは母国語より現地の言葉を使って勉強することが大事だ。母国語で話せず、わからない外国語で過ごすのは苦しいが、その国の言葉を理解し、発音を学ぶことでその国の音楽や演奏スタイルを感覚的にも学ぶことができるのだと私は思う。
次回予告 :ヴェルバのレッスンについて