クラリネット記事 05|ウィーン観光、生活に慣れてきて入試
  クラリネット記事 05|ウィーン観光、生活に慣れてきて入試
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渡墺後の日常について

05|ウィーン観光、生活に慣れてきて入試

What's えびちゃん留学記 ...

自分が感じる「違い」はなんなのだろう───
演奏の違いから様々なことを探求して行った留学時代と海外生活時代を振り返りながら、現地の情報もお届けします。ファゴット奏者で、指揮、講演、コンサートの企画、オーガナイズ、コンサルティング、アドバイザーなど様々な活動をする基盤となった海外留学とはどんなものだったのか。思い出すままに書いていきます。

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蛯澤亮

蛯澤 亮
Ryo Ebisawa


茨城県笠間市出身。笠間小学校にてコルネットを始め、笠間中学校でトランペット、下妻第一高等学校でファゴットを始める。国立音楽大学卒業。ウィーン音楽院私立大学修士課程を最優秀の成績で修了。バーゼル音楽大学研究科修了。 ザルツブルク音楽祭、アッターガウ音楽祭、草津音楽祭などに出演。元・ニューヨーク・シェンユン交響楽団首席奏者。茨城芸術文化振興財団登録アーティスト。ファゴットを馬込勇、ミヒャエル・ヴェルバ、セルジオ・アッツォリーニの各氏に師事。 「おしゃふぁご 〜蛯澤亮のおしゃべりファゴット」を各地で開催、クラシック音楽バー銀座アンクにて毎月第四金曜に定期演奏、池袋オペラハウスにて主宰公演「ハルモニームジーク 」を毎月第二水曜日に開催するなど演奏だけに留まらず、様々なコンサートを企画、構成している。

 

ウィーン観光、生活に慣れてきて入試

留学してしばらく、平日午前はドイツ語学校、火曜と木曜はレッスンというスケジュール。それ以外は練習したり観光したりしていた。

ウィーン美術史美術館は日本では考えられないくらい大きな美術館だ。絵だけでなく建物自体も歴史的。絵を鑑賞するだけでなく、その空間自体を楽しむという感じがヨーロッパの大美術館の醍醐味ではないだろうか。館内にはカフェもあり、一休みした後にまた鑑賞、というくらい豊富に絵画が並んでいる。


写真:ウィーン美術史美術館

私は子どもの頃から絵が大好きだった。祖父も趣味で絵を描く人で、一緒に風景をデッサンしに行ったりしていた。デッサンは好きなのだが色を塗るのが苦手だった私は、色彩豊かな絵を見るとついつい見入ってしまう。有名なクリムトの「接吻」が飾ってあるベルヴェデーレ宮殿など、建物と絵画のコラボレーションはいたるところで見られる。リヒテンシュタイン宮殿では壁画も素晴らしく、のちに壁画に囲まれたヘラクレスザールでマーラーの第九を演奏した時は「ウィーンだから味わえる醍醐味だな」と舞台上にいながら空間と音楽のコラボレーションを心地よく味わった。

有名なウィーン市立公園にも早い時期に行った。何が有名って、あの黄金のヨハン・シュトラウス像だ。いつも必ず観光客数人が記念撮影をしている。でも実はこの市立公園にはアントン・ブルックナーの像も小さいながら建っている。ファゴット吹きとしてブルックナーを演奏するのは好きではないが(特に後期の交響曲)、聴くのは大好きだ。よく神聖だとか崇高だとか言われるが、私はブルックナーの土臭い感じが好きだ。あまり共感されないのだが……。

市立公園の近くにもシューベルトやベートーヴェンの像があったり、少し離れたところには有名なモーツァルトの像もある。こういう作曲家の像はやはり音楽留学生として最初に見ておかなければいけないと思って真っ先に見に行った。


写真:黄金のヨハン・シュトラウス像

 

ウィーンの真ん中にあるシンボル、シュテファン寺院もまず最初に行かなければいけない名所だ。私がいた頃はまだ塔に工事中の幕が張ってあった。私はシュテファン寺院がちょっと苦手だった。外側から見ても暗い雰囲気だし、中に入ってもあまり長居したくない感じだ。後で聞いた話だが、霊感がある人はシュテファン寺院が苦手だという人が多いらしい。シュテファン寺院を綺麗だと思って、訪れるのが好きな人は霊感を持たない人だと。本当かどうかわからないが、私はウィーンでは何回か不思議な体験をしたことがある。それはまた別の機会に。


写真:シュテファン寺院

四月一日にウィーンに来て、入試は六月だった。当時、私の受ける大学はかつてのウィーン市立音楽院という名前から経営が変わり、直訳するとウィーン音楽院私立大学という名前になっていた。今ではまた名前が変わったようだが、日本語にしづらい名前なので困っている。ウィーン音楽院で良いのではないかと思ったが、それはそれで別の学校があり、差別化するためには「私立大学」をつけなければいけないのだ。

要はヨーロッパには音楽院と音楽大学があり、音楽院は大学よりも下に位置付けられてきたが、音楽院のレベルも高かった。実際、ウィーンもウィーン国立音大とウィーン市立音楽院の二つが二大教育機関で、それぞれ優秀な先生と生徒が揃っていた。

例えば20世紀後半からウィーンフィルを引っ張ってきたコンサートマスターのライナー・キュッヒルは国立音大の教授、ヴェルナー・ヒンクは市立音楽院の教授といった具合にそれぞれが切磋琢磨してきたのだろう。ちなみにファゴットの教授も国立音大はシュテファン・トルノフスキー、市立音楽院はミヒャエル・ヴェルバというウィーンフィルの首席奏者がそれまでの伝統通り受け継いでいたのだ。

しかし、市立音楽院は私立大学にしてEUの基準である学位を取れる学校にするという目標のもと、変革しているところだった。しかし、かつての「音楽院」という名前を残したため、訳すときに少し面倒くさい感じになってしまっている。

私が受けるのは日本だと別科に相当するところだった。実技しか受けなくて良いが学位はない。当時のウィーン音楽院私立大学では学部の年齢制限が21歳だったと記憶している。だから大卒では入ることがそもそも無理なのだ。大学院ができるのはこの半年後で、この時は別科に入るしかなかった。しかし、学位に興味のなかった私は何の不満もない。レッスンが受けられれば良いのだ。

モーツァルトは演奏したが、他はどんな曲をやったのか忘れてしまった。とにかく、演奏は問題なかった。ヴェルバには入試のためのレッスンなど要らないと言われた。「問題はドイツ語だ」が口癖だった。

当時はドイツ語検定が今のように厳しくなく、ただ学校が作った問題を解くだけだった。そのため筆記試験は難なく解けたが、問題は面接だ。

実技試験は学校内の小さいホールで行なわれる。日本でイメージするホールではなく、大きめの部屋にステージがあるくらい。だが、やはりよく響く空間だった。演奏は普通にこなした。

実はこの時の審査員で、当時ウィーンフィル首席奏者になったばかりのハラルド・ヘアトが私の演奏を気に入ってくれて、その後仲良くしてもらうことになる。しかし、当時の私にとってヘアトも他の審査員も知らない顔だったが、みんなとても好意的だった。むしろヴェルバが一番厳しい顔をしていた。

当時の学部長が一筋縄ではいかない人で、面接では学部長が鬼門だった。だが、何とかある程度話せたので合格することができた。すべて合格することが前提で進んでいたのでここでもし落ちていたらと思うとゾッとするが、とにかくうまくいった。九月からは正式な学生となることが決まった。

次回は留学、入試事情について書きたいと思う。

 

 


 

次回予告 :気になる入試事情


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