クラリネット記事 本濱寿明 & 岡本知也 インタビュー Part.1
  クラリネット記事 本濱寿明 & 岡本知也 インタビュー Part.1
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本濱寿明 & 岡本知也 インタビュー Part.1

音楽との出会いから音大受験へ

導かれるように国立音大へ……

それぞれの経歴と、楽器を始めた経緯を教えてください。
本濱
本濱寿明と申します。兵庫県淡路島の出身で、10才のころにピアノを始めたことから音楽に触れ合いました。クラリネットは中学一年生の吹奏楽部が発端になります。
そのころ、母親に「ピアノ以外に何かしてみたい」と言ったら「クラリネットとかいいんじゃない」と。後から訊いたら、管楽器でクラリネット以外の名前をあんまり知らなかったから言ったらしいのですが。 最初はピアノで音大、音高に行きたいと思っていました。ただその当時、一人で8時間も9時間も練習をするのがさみしくて……。何十人もの奏者が集まって一つの音楽を作る合奏に憧れを感じていたので、クラリネットにシフトチェンジしました。
高校三年生のときの担任の先生が武蔵野美大出身だったのですが、「行くか行かないかは別として、東京の大学の空気感というものを見に行ってみるべきよ」と言ってくださったので、その時点(2003年10月)で開催しているオープンキャンパスを探してみたら国立音楽大学が出てきました。
それで、夜行バスに乗って、朝一番で国立音大の入試相談室へ行ったら出てきたのが武田(忠善)先生だったという……。
岡本
そうだったんだ……。
岡本
祖父がまったく弾けないけどピアノが好きで、僕にピアノをやらせたかったんです。家にあるアップライトピアノを僕が触って遊んでいるのを見て、祖父は「これはしめた」と。
そしたらピアノに向いていたのか、遊んでいるうちに聴いたものを弾けるようになったんです。そこでお教室に通うことになり、みんなでわいわいやるのが楽しいのでずっとグループレッスンをやってましたが、小学四年生くらいでみんな辞めていっちゃったので、そのまま辞めました。
祖父がカセットに録りためていた録音があって、中一のころたまたまショパンの『バラード 第1番』を聴いたときにこの曲を弾きたいと言ったんです。そうしたら祖父が「この曲を弾きたいって言うんだったらピアノのレッスンに行かないとダメだよ」って。なので、そこから本格的にピアノを始めました。
テニス部を引退した中三のときに進路で悩んでいたのですが、当時在籍していたちょっとやんちゃなクラスが合唱コンクールで熱くまとまって良いクラスになったことにすごくいいなって思って、音楽の先生になろうって考えたんです。その事を相談した、学校の音楽の先生も、習っていたピアノの先生もくにたち(音楽大学)だったので、そのまま国立へ……っていう感じでしたね。
本濱寿明さん
岡本知也さん

無色透明の自分

本濱さんは音大を受験するにあたりどのような練習をされましたか?
本濱
国立音大に決めた時点でもう受験の4か月前でした。当時、先生から「今からものすごい練習しなければいけない」と言われたので、僕は徹底的に時間を詰めてひたすら受験曲とスケールだけを練習していました。
大体音大を受けられる皆さんって、高校入って2年くらいまではいろんな曲とかエチュードを勉強して、ラスト1年で受験のための曲をやろうねって感じなのですが、僕の場合は受験の曲しか知らなかった。
ただ、ピアノで音高に行きたいと考えていたこともあったので、ピアノ、楽典、新曲視聴などはほぼほぼ終わっていたんです。なので、後はクラリネットをどうにかするだけで。
親からは浪人して私立に行かせるのは難しいと既に言われてて、親父からは落ちたら薬剤師になれと。
岡本
薬剤師業界から反発が来そうだ。
本濱
それですごい悩んでいたのですけど、武田先生に相談したら「男だったら一本で受けてこい」と。それで、なんとか合格ラインスレスレで飛び込んだんです。クラリネットの同級生の子たちが話す「入ったらこういう曲やりたい」とか「エチュードいままでなにやったか」とか、そういった話がまったく分からない、ある意味無色透明みたいな状態でした。
それから入学前、武田先生のところにご挨拶に行ったとき、「横川(晴児)にあずける」と言われました。
でもそこで、武田先生が横川先生にあずけてくれたことが、人生の大きな転機でしたね。めちゃくちゃ感謝しています。
やりたいことがあるのは明確だからそれを潰さないように、でも仕事だから言うべきことは言わないといけない。だから横川先生は、なるべくストレートにすべてを言ってくださった。あとになって、とてもありがたいことだったと感じます。
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