クラリネット記事 クラリネットとの“縁”
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クラリネットを本当に楽しむためのヒント

クラリネットとの“縁”

“縁”とはいったいどんなもの?

前回の最後に「このページをご覧になったのが縁」と申しましたが、今回はお話の材料として宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」を取り上げます。これは縁がテーマ。皆さんはセロ(チェロ)をクラリネットに置き換えて考えてみてください。
ゴーシュはセロ弾きなのですが、とても下手でした。自分のテクニックが未熟であることにひっからまって、暗い気持ちで練習をしていました。音楽会の日は迫ってくるし、楽長には叱られるし、とても楽しむどころではありません。ここまでが物語の土台で、この先が面白くなります。病気のけものたちが、そんなゴーシュの弾くセロの音で癒やされ、治ってしまうのです。猫やカッコウのように、やれテンポがどうの、音が違うのとうるさ型もいるのですが……。けものたちがゴーシュの弾くセロの音を癒やしとするような事情とは、どういうものだったのか。たぶんそれは何ものにも囚われない自然な心でしょう。これを持つことは、口で言うほどたやすいことではありません。
私たちは演奏会などで、どれだけ自然な心になって音楽に接することができるでしょうか。その演奏者が何歳の時からレッスンを始めたか、師匠は誰、出た学校は、コンクールの成績は……それらのことを気にしないわけにはいきません。でも、これでは演奏者のキャリアを聴くのであって、音楽に自分のすべてをゆだねる聴き方ではないわけです。逆のことも起こります。たとえば風評やテレビのインタビューに答えた一言などで、ある演奏者をすっかり嫌いになっていたところ、旅先の街角で何とも素晴らしい音を耳にし、それが嫌いだったはずの演奏者によるものだったり……。このように私たちの心はとかく囚われやすく、また同時にそれから逃れる道もいたるところにあるわけなのです。
さて、ゴーシュはけものたちの言葉によって自信と言うか、ひとつの新境地を得ます。必死の猛練習のあとで(ここが重要な前提)けものたちの言葉が“縁”となった。わかりやすく表現すると、「たとえテクニックが未熟でも、いっしょうけんめい弾けば喜んでもらえる」ということに出合ったのです。この「たとえ粗末なものでも心を込めて」という考え方に積極的な価値を見出すのは、日本文化の底流に昔からあったもの。“わび”がそれです。わびは“詫び”で、粗末なところはお詫びしつつ精一杯心を込めてもてなすのだから、粗末なことにあぐらをかくのではありません。このことは今私たちが音楽活動をするうえで思い起こして良いことでしょう。使用する楽器からコンクールの成績まで、何もかもベストワンでないと心の安らぎが得られないという姿は、むしろ貧しいことだと思いませんか?
こう見て参りますと、クラリネットを楽しむために一番大切なことは「くよくよしないこと」、この一語に尽きると言えるでしょう。あ、そうそう、前回触れた暗い気持ちで毎日クラリネットを吹いているあなた、それもまた出合いなのです。これを“逆縁”と呼び、すんなり事が運ぶのは“順縁”。素敵な出合いにも順と逆の二つがあるのです。「昨日の敵は今日の友」。以前チョー憎たらしかったあいつが今の彼、ってこともあるでしょう?
3回にわたってつらつらとお話してきたこの連載も、これでおしまいです。最後にひとこと。読者の皆さんがそれぞれにのびやかな考え方を持ち、様々な場で、様々な形で楽しい演奏活動をなさるよう、祈ってやみません。ありがとうございました。

菊乃家みやまつ座
みやまつ真水

Mamizu Miyamatsu

本名、内藤和男。1942年新潟県越路町出身。中央大学卒業。司書などを経て1993年ちんどん菊乃家へ入門。それまで“幻想”だった「音づれびと」を実際の仕事として具体化する試みに着手。素材はちんどん。太鼓・ズルナ(トルコのチャルメラ)などなど広く楽器に親しむが、メインはクラリネット。祖父ゆずりの易者でもある。


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