フルート100年トリップ!後編
大正時代に初めて誕生した、国産フルートの第1号。プロとして活動し始めた奏者たちと、西洋音楽から日本独自の音楽を創作していった作曲家たち――。市井に広がった音楽文化は、新たな時代を感じさせる勢いにあふれていました。
国産フルート誕生話
ムラマツフルート創始者・村松孝一は、“国産フルートの父” ともいえる存在だ。前項にあるように、村松は軍隊を除隊になった後、副業として映画館の楽士としても働いていた。当初、楽器製作だけでは生活できず、副業での給料もすべて楽器製作のために使っていたという。現在世界中で使われ、高く評価されるようになった国産フルートが誕生したのは、一人の職人がそこまで情熱を傾けたからこその結果だろう。
国内にフルートメーカーがたくさん存在するようになったが、そのほとんどは村松孝一の弟子たちによる系譜か、ヤマハの前身であるニッカン(日本管楽器製造株式会社)で働いた人々からの継承に分かれる。100周年を迎えたムラマツフルートが、たった一人の先駆者から始まって世界に広がり、様々なメーカーにも波及していることは、驚異的な事実である。
大正時代のフルーティストたち
『君が代』の作曲者として知られる。明治時代、東京藝術大学音楽学部の前身「音楽取調掛」で学び、後に教える側となる。管弦楽合奏を受け持ち、日本で最初に演奏されたフルート四重奏曲『テレセン・ワルツ』(カール・ファウスト作曲)を演奏したといわれている。
三越少年音楽隊の第一期生で、後に新交響楽団結成時のメンバーとなる。定期演奏会では、バッハの管弦楽組曲第2番、ブランデンブルク協奏曲、モーツァルトのニ長調協奏曲のソリストとしても出演した。新交響楽団の初期の録音は、一番フルートのほとんどを宮田が吹いていたと考えられ、1930年に行なわれたマーラーの交響曲第4番の世界初録音も同様である。
東京フィルハーモニー交響楽団の名物奏者といわれた河村は、松坂屋デパートの前身であるいとう呉服店が発足させた少年音楽隊で活動していた。この音楽隊が、東京フィルハーモニーの前身だった。“世界一のフルーティストになる” ことを目指し、呉服店の倉庫で一人、指から出血するほど練習に励んだという逸話の持ち主。暗譜力にもすぐれていたという。
NHK交響楽団の前身・新交響楽団結成時のメンバー。旧制中学校卒業後にアメリカに渡り、ロサンゼルス・フィルハーモニックの首席奏者ジェイ・ブラウにフルートを学び、帰国後はオーケストラメンバーの他指揮者としても活躍した。また、昭和に入ってからは、日本人作曲家による最初のフルート作品『ソナチネ』(松平頼則作曲)や、山田耕筰による『この道』変奏曲の初演を果たしている。
宮田清藏と同じく、三越少年音楽隊の第一期生から後に新交響楽団結成時のメンバー。音楽鑑賞組織の「東京フィルハーモニー会」が、大正4年、山田耕筰を指揮者とする管弦楽部を結成し、公演を行なった。その演目の一つだったフィリポヴスキーのピッコロ協奏曲『うぐいすの歌』を独奏している。
詩人でもあった深尾須磨子は、楽団などには属さず、ソロの演奏活動をしていた。パリに留学し、マルセル・モイーズの日本人弟子第1号となったが、その前から日本のステージに立って演奏活動もしていたようだ。日本初の女性フルーティストであり、またソロフルーティストでもあった。
次ページに続く
・弐 大正文化の中の音楽
・参 オーケストラと吹奏楽