新しい生活様式とともに、新たな文化を…!
日常に少し落ち着きが戻っても、まだまだコロナ禍の緊張感は緩まない。みんながもがきながら、生活スタイルを変えていく。
昨今は、テレビ番組のズーム出演も当たり前になり、ゲストらがスタジオに出向く必要がなくなり、MCでさえモニター出演することもあるほど、放送の簡素化が試みられた。
そうすると、YouTubeでズームを用いながらディスカッションを行なったり、セッションしたりするのと変わらないため、ますますテレビとネットの距離が近づいた気がする。もちろん、テレビのほうがまだまだ力のあるマスメディアだが、ネットのほうが良い点は、出演者らが興味のあるテーマに直接斬りこむため、掘り下げやすい。
テレビは、より多くの一般人をターゲットにするため、またスポンサー企業とTV局と製作者と出演者とのバランスに配慮を要するため、放送内容の規約がある。だから、表に出る出演者は、ときにやりたくもないことを妥協することになる。いまや、タレントや芸人に限らず、文化人までが、なんとなく迎合しているように見えるのも、まず出演ありき、のところから始まっているからだろう。大きなお金が動いているから制約が生まれるのだ。それでも、出たい人が多い。
私は、新卒で放送局に入り、映画業界に転向しながらも、映画を扱うテレビ番組の制作テレビマンとして、と同時にTVの映画解説者として、二つの世界の橋渡しをする仕事をつとめてきた。自ら喋って露出するのは不得手なほうなのだが、「木曜洋画劇場」(テレビ東京系)は、前説の喋りがたったの1分だけ。映画を鑑賞した後、集めた資料とともに原稿を書き、長ったらしいタイトルを含めて、わずか1分しか与えられてない。
当然、自分で原稿をまとめるのだが、それを撮影現場で声にしたとき10秒ほどオーバーになり、大慌てで原稿を削るか、しゃべりのスピードを上げるかを検討する。いったん秒単位でまとめた原稿を削るほうが手間なときは、2段階ぐらい、喋りのスピードを上げることになる。早口だと言われたのは、たぶんそのせいだろう。
番組にとってスポンサーが増えるのは喜ばしいことだが、そうすると時間が減り、解説が徐々に削られ、後説がなくなってしまったこともある。かけらも余裕がない状態だ。
そもそも、製作をしていたから露出ありきの方向ではなかったのだが、それでも映画というメイン材料を前後にはさむサンドイッチのパンみたいな、“解説”という私の役割が追い込まれる。とにかく、秒単位で映画の骨子と自分の視点を入れ込むのだ。大量の資料から、100分の1くらいに頭で圧縮する作業があり、さらに自分の言いたいことは数秒内にとどめる。映画を引き立てるための役割で、度を越えてはいけない。以来、話は短いほど緊張感が出て、リズムが増し、キレキレに見えることを実感した。
時間があると、メモ程度のフリートークにするほうが喋りは楽だ。それを原稿読みで長々やると聞き手を疲れさせる。どこかの総理大臣が、毎度長々と悦に入り原稿を読み上げるのは、いったい何が面白いのだろうかと思う。もしや、アナウンサーになりたかったのか? あのスピーチは、下手なカラオケ好き素人の歌を聞かされているに等しく、聞くに堪えない芸である。中身が面白いか、喋りに格別な芸があるのか、そうした魅力がなければ持たない。せめて短い時間で、リズムをとりながら読めるように、準備すべきだろう。
普通の日本語を使う限り、喋りというものは、演奏や絵画のような技術やセンスや才能がなくても、誰でも安易に発信できる表現方法だと考えられがちだが、それは違う。
それで~、だから~、とちんたらちんたら、喋りにテンポがなく、語尾伸ばしが強かったり、ロジックやオチがなかったり、聞くに堪えないトークショーが日々、メディアを中心に展開されている。そういう下手な芸は、若さや学歴や肩書きにより、許されているかのようだ。そこまでの学歴があって、なんで幼稚な喋り方をするのか、あるいは主義主張が薄いのか、コメンテイターをする意味がわからないことがある。
トークショーも、芸術家と同じように、技術や内容で磨かれていかなくてはならない。それでなくても、日本語はリズムがない。主張をするために、だらだら話す人は伝える力がない。一級の喋り手は芸人に多いが、日ごろの鍛え方、周囲の受け入れ方が厳しいから磨かれていくのだが、知識人も負けずに専門性や表現テクを身に着けるべきだろう。
さてコロナ禍の中で、文化人や音楽に携わる人たちが、さまざまなアイディアでマスメディア以外でも発信するようになったが、とりわけ私が良いと思うのは、音楽家のライブ活動と同時に行う演奏の配信システムだ。劇場やライブハウスの鑑賞が難しい中、生配信を共有するシステムは、本当に素晴らしい。
ベルリン・フィル、ウィーン・フィルはじめ、日本の管弦楽団などクラシックの配信チケット方式は、ネット購入で、席に限界はなく、家で装置の良い環境にしておくと、なかなかの迫力で楽しむことができる。遠くて足を運べない人たちにとっても、貴重な時間だ。かねてからのファン以外にも広くアピールできるから、コロナ禍ならではの発想といえる。もう、テレビに頼らなくても、自主的に映像で見ることができるのだ。
どんな演奏も生が良いに決まっているが、いつも場所や日時に縛られて足を運べないことも多い。それが配信システムは、いまの演奏をどこにいても聞けるし、ファン層を広げるきっかけになる。私を含め、周囲でも配信チケットにより、コンサートが身近になったという人が少なくない。
これまで絶対に生の演奏しか受け入れなかったジャズのレジェンド、菅野邦彦氏(84歳、ピアニスト)率いるトリオは、先日ついにコロナ禍の配信システムを受け入れた。1stステージのオープニング、「ゴッドファーザー」の映画のシーンが浮かぶドラマチックな演奏に始まり、この世代のアーチストにしか出せない音を圧倒的な力で聞かせた。それは2ndステージの有料配信につなげ、思いつきのリストアップで10曲以上、ぶっちぎりで演奏を続け、ブラジルのジャングルまでいざなう世界観が広がった。こんな天才の演奏を聴くチャンスは、なかなかないだろう。
今後のスケジュールはこちら
https://keystoneclub.tokyo/
配信中、見知らぬチャット仲間らが「コロナが終わったら、生で聞きに行こう!」という話になっていた。ライブと映像の良い関係だ。
これがテレビで放送する場合、多くの制約がかかって、自由な演奏ができない。ディレクター権限で曲を決められたり、コラボ相手を決められたり、よけいなこともしかねない。優れた音楽や映画があっても、じっくり見せる、聴かせることなく、適当なコメントでそれを遮る演出すらしてしまうのが残念だ。
もはやテレビスタッフは、文化、芸術音痴で、テレビメディアの万能感に浸り、芸能界しか知らないのだろう。だから、アーチストファーストのライブ配信は、楽しいのだ。
加えて言うと、マスメディアはいま、政治の腐敗と権力の関係で、ジャーナリズムが危惧されているが、さらに音楽や映画の素晴らしさを紹介する文化価値も備えていない。日本人に生まれたら、誰でも使える日本語と学歴、肩書を武器に、ちんたらしゃべることで、トークショーが成り立つと思っている。
コロナで良い意味のガラガラポンになれば、新たな文化の創造が期待できるのではないか。
木村奈保子
作家、映画評論家、映像制作者、映画音楽コンサートプロデューサー
NAHOKバッグデザイナー、ヒーローインターナショナル株式会社代表取締役
www.kimuranahoko.com
N A H O K Information
木村奈保子さんがプロデュースする“NAHOK”は、欧州製特殊ファブリックによる「防水」「温度調整」「衝撃吸収」機能の楽器ケースで、世界第一線の演奏家から愛好家まで広く愛用されています。
Made in Japan / Fabric from Germany
問合せ&詳細はNAHOK公式サイトへ
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