フルート記事 【第4回】新・国産フルート物語 新たなブランド誕生までの道─技術者たちの決心
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THE FLUTE vol.169

【第4回】新・国産フルート物語 新たなブランド誕生までの道─技術者たちの決心

HISTORY

世界中にその品質が認められるようになった現在の日本産フルート。日本のフルートとそれを創り支えてきた人々の記録を残しておきたい。さまざまな国内メーカーが創業50年の節目を迎えるこの時期に、“日本で唯一のフルート専門誌”であるTHE FLUTEの使命の一つと考え、新たなフルート物語を紡いでいく。

本誌THE FLUTE vol.166より連載がはじまった「新・国産フルート物語」。THE FLUTE CLUB会員限定でオンラインでもご紹介します。

※雑誌に掲載した第1回〜3回の内容は順次公開していきます。


1998年に、アルソ出版より刊行された書籍『国産フルート物語』。日本のフルートメーカーを丹念に取材し、トップメーカーから個人経営の工房まで、その黎明期から現代に至るまでの歴史と道のりをつぶさに書き連ねた貴重な記録だ。しかし現在はすでに絶版となっており、社内にある在庫もたった1冊のみ。大変貴重な資料となっているが、20年の時を経ているだけに、このままでは風化し埋もれた存在になってしまうという危機感もある。世界中にその品質が認められるようになった現在の日本産フルート─ここまでそれらを先導してきた技術者たちと、メーカーや工房のあけぼのを知る人々も高齢化し、またすでに鬼籍に入る人もいる。

書籍「国産フルート物語」
アルソ出版社内にたった1冊だけ残る、貴重な1冊

そんな状況を迎えている今、あらためて日本のフルートとそれを創り支えてきた人々の足跡を記すべく、「新・国産フルート物語」としてあらためて記録を残しておきたい。さまざまな国内メーカーが創業50年の節目を迎えるこの時期に、“日本で唯一のフルート専門誌”であるTHE FLUTEの使命の一つと考え、新たなフルート物語を紡いでいく。

前回・前々回の2回にわたり、ヤマハの前身であるニッカン時代から製作に携わった元技術者の手記から、国産フルートの量産体制がスタートするまでの歴史を振り返った。

 

第4回:新たなブランド誕生までの道——技術者たちの決心

今回は、ムラマツフルート(村松フルート製作所)から独立した人々が、三響フルート製作所の立ち上げに携わることになるまでのエピソードを紹介する。

久蔵菊雄……1968年三響フルート製作所を設立、代表取締役に就任。故人
武井秀雄……現・株式会社三響フルート製作所会長

「国産フルート物語」(アルソ出版 1998年発刊)より再編、写真は当時のもの

ムラマツフルートの急成長期 

久蔵
ニッカン(日本管楽器製造株式会社)に6年ほど勤めて、ムラマツに入ったのが昭和29年でした。その翌年に、専務(註:取材当時、武井氏は三響フルート製作所の専務取締役だった)が入ってきたんだね。
武井
はい。高校を出てアルバイトとして入りました。当時、みんな村松さんのことを先生と呼んでいましたね。
久蔵
フルート1本の値段が八千から一万円の時代でした。あの頃ムラマツで働いていたのは、男性は私たちを含めて六人で、あとは外注で作っていた人が一人いました。その当時は野方(中野区)に工場があって、外注の分も含めて全部で月に35~40本くらい作っていたかな。当時、ムラマツフルートの宣伝のために、1万本記念パーティをやろうという話が出たのです。結局それがきっかけで、ムラマツフルートがマスコミで取り上げられるようになって、村松孝一さんの名前が一気に有名になったのです。
久蔵
村松さんというのは、職人というか芸術家タイプの方なんです。また非常にモダンな方だったのではないでしょうか。浅草時代はベレー帽をかぶっていたという話も聞いていますよ。
武井
我々にとっては、先代の村松さんの言ったことが絶対でしたね。例えば、私が部品を作っていた頃の話ですが、一度村松さんの指示通りのことをやったのに、翌日「どうしてこんなことをやったのか」とすごくしかられたことがあるんです。悔し涙をポロポロ流したことがあるんですよ。後で聞いたら、みんなほかの人もそうだったということでしたけど。そんなところもありましたが、懐具合の良いときには、すごく優しい方なんです。私はこの道に入ったのがアルバイトということもありましたし、私の叔父と村松さんが軍楽隊で一緒だったということもあって、私に卵を買ってくれたり、小遣いをくれたりしました。
久蔵
特に1万本記念パーティをやってからは、生産が間に合わなくなってきたうえに、経営的にも問題が出てきてその結果、我々は自分の家に帰らされてしまうことになったのです。村松さんいわく「うちでは一人前になったら、男は自分の家で下請けの受け取りで仕事をやってもらうことにした」ということでした。
実際は急に生産が増えて、税務署の調査が入ったことや、ムラマツの作業所が手狭になってしまったということだったのでしょう。当時は私は東長崎(豊島区)に住んでいたのですが、大家に相談して六畳一間くらいのところに、仕事場を作ってもらいました。ですから部品をもらって帰って、組み立てては納めてという具合に、野方の工場と自分の家を一日おきくらいに往復していたんです。

「村松孝一フルート作り30年1万本記念祝賀会」の様子が掲載された、 当時の雑誌取材記事

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