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THE FLUTE vol.182
【第15回】新・国産フルート物語 アイデアを形にする、飽くなき探究心 —ナツキフルート
本誌THE FLUTE vol.166より新たに連載がはじまった「新・国産フルート物語」。THE FLUTE CLUB会員限定でオンラインでもご紹介します。
アルソ出版社内にたった1冊だけ残る、貴重な1冊
1998年に、アルソ出版より刊行した書籍『国産フルート物語』。
日本のフルートメーカーを丹念に取材し、トップメーカーから個人経営の工房まで、その黎明期から現代に至るまでの歴史と道のりをつぶさに書き連ねた貴重な記録だ。
当時から20年以上が経ち、令和の時代を迎えた今、それらのメーカーや工房なども代替わりなどが進み、様変わりしてきている現状がある。そんな現在の姿をあらためて伝えるべく、新たに取材を加えながら「新・国産フルート物語」としてここに綴ってきた。
今回は、ナツキフルート社長・夏木文吉氏へのインタビューをお送りする。兄の楽器づくりを手伝いながら独立して自社ブランドを立ち上げ、さまざまな新製品を生み出すまでの足取りをたどった前回。引き続き、移転後の工房で円熟期を迎えている現在の姿を、あらためて取材した。
「国産フルート物語」(アルソ出版 1998年刊)より再編、写真は当時のもの
第15回:音色・工程のすべてにこだわる職人の誇り —ナツキフルート
無鉄砲と勢いで踏み出した、楽器づくりへの道
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20歳の時に大阪から上京されてお兄さんの仕事を手伝いつつ、25歳で独立してナツキフルートのブランドを立ち上げられたのですね。当時の様子はどんな感じだったのですか?
夏木
兄は当時、「S.Mフォークフルート」という簡易フルートの製造に携わっていたんです。F管の、トーンホールを指で押さえるキィのないタイプの楽器で。普通のフルートがほとんど普及していなかった1970年代の初めには、それなりに売れていました。ミヤザワフルートの宮澤さん(現ミヤザワフルート会長・宮澤正氏)や、マテキフルートの渡邉さん(マテキフルート創始者・渡邉茂氏)も、一時期一緒に仕事をしていたことがありました。その後まもなくしてフルートブームなどが始まって、国内でも普通のフルートが広まっていったんですよね。私は部品づくりを手伝ったりしていて、その時はまだ本格的に楽器を作ったりなどはしていませんでした。
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にもかかわらず、お兄さんのもとから5年で、弱冠25歳での独立というのは大変な偉業ですね。一般的な感覚だと、就職して5年間働いても、まだまだ独立できる技術が身につくところまではいかないですから。
夏木
まあ当時だからできたということもあるし、勢いにまかせて……今思えばめちゃめちゃ無鉄砲な話ですよ。もともと、大阪時代からものづくりは経験してきていたので、ものを作る順序とかそういうセンスは身についていたんだよね。完成品のフルートを見て、どういうふうに作られているかということはパッとわかるくらい。でもそれにしたって、あの頃だったからできたんでしょうね。
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現在の国内フルートメーカーは、村松孝一さんのお弟子さんの系譜か、ニッカン〜ヤマハの流れの中でフルート製造に携わってきた方々が立ち上げた場合が多いですが、ナツキフルートはそのどちらでもない独自路線ですね。野口龍さんや中川昌三さんからアドバイスを受けながら完成させていったということですが、その頃にはある程度の技術は固まっていたのですか?
夏木
いや、最初の頃なんて、ただ作るだけで良し悪しなんてあったもんじゃない。そもそも日本のフルートづくりは見よう見まねから始まって、改良に改良を重ねてきたわけです。その例に漏れず、少しずつ進化しながらずっとここまで続いてきたということですよね。ああでもない、こうでもない……を繰り返してきたのは、結局ものをつくるのが好きだから。もっといいものを作りたいとずっと思い続けて、今に至っているんです。
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野口龍さんには、一本一本吹いてテストをしてもらっていたそうですね。
夏木
はい。当時は自分自身がほとんど吹けなかったこともあるし、やはりプロの一流奏者のチェックが必要だろうということで、その頃納めていた問屋さんの紹介で野口先生とご縁ができました。以前、新小岩に工房があった頃は、本当によく通っていただいていましたね。野口先生の生徒さんにも使ってもらったり。良し悪しどころではなかった時代から、野口先生が丁寧に見てくださったおかげで、今があるようなものです。
ナツキフルート社長・夏木文吉氏
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