【連載】THE FLUTE ONLINE vol.180掲載

【第12回】ふたたび、「あふれる光と愛の泉」

ジャン・ピエールとその父ジョゼフ、ランパル親子に学び、オーケストラ奏者を歴任、その後パリ音楽院教授を務め、日本のフルートシーンに大きな影響と変化をもたらしたフルーティスト、アラン・マリオン氏。1998年、59歳で急逝してから20年が経った。当時、氏の来日の度に通訳を務めた齊藤佐智江さんは、氏へのインタビューと思い出を綴った「あふれる光と愛の泉」(アルソ出版刊)を翌1999年に上梓した。パリ留学時代の氏との出会い、マリオン氏の通訳を務めることになったこと、傍らで聞いた氏のユーモア、珠玉の言葉、感動的ともいえるエピソードの数々……。それをいつか本にまとめたいと1998年5月に始めたインタビューは、期せずして、氏がパリ音楽院の教授に指名されたところで終わってしまった。
今ふたたび、「あふれる光と愛の泉」をもとに、マリオン氏と共に音楽を人生を享受した様々な音楽家、そして強い意志を持って音楽家の人生を生き抜いたマリオン氏をここに紹介したい。

 

齊藤佐智江
武蔵野音楽大学卒業後、ベルサイユ音楽院とパリ・エコール・ノルマル音楽院にて室内楽とフルートを学ぶ。マリオン・マスタークラスIN JAPANをきっかけにマスタークラス、インタビューでの通訳、翻訳を始める。「ブーケ・デ・トン」として室内楽の活動を続けている。黒田育子、野口龍、故齋藤賀雄、播博、クリスチャン・ラルデ、ジャック・カスタニエ、イダ・リベラの各氏に師事。現在、東京藝術大学グローバルサポートセンター特任准教授。

~アラン・マリオンをめぐるフレンチフルートの系譜~
《番外編》卒寿を迎えたレイモン・ギオー

パリの自宅にて、2000年頃パリの自宅にて、2000年頃

アラン・マリオンがパリ音楽院教授に任命されて以来、アシスタントとして強力なタッグを組んでいたのがレイモン・ギオーだ。このシリーズでも最初にそのインタビューを取り上げた(本誌170号)が、昨年10月にギオーは卒寿(90歳)を迎えた。フランスのフルート協会は、祝賀コンサートを2020年のコンヴェンションの中で行なうはずであったが、コロナ禍の影響により残念ながら実現できなかった。協会会報La traversiere誌では、今回、特集号として二つの分野の第一線で活躍してきた氏の知られざる人生を大きく取り上げた。
3回にわたり、その記事を紹介する。

R.ギオーは1930年、フランス北部の都市ルーベ(Roubaix)に生まれた。音楽好きな父のおかげで7歳から地元ルーベの音楽院でソルフェージュを始め、10歳からフェルナン・デュソソイのもとでフルートを始める。その後、ちょうど終戦を迎えた1945年、パリ音楽院のガストン・クリュネルのクラスに入学、そののちオーレル・ニコレらとともにマルセル・モイーズのパリ音楽院のクラスに移籍、17歳でプルミエ・プリを取得する。リル(Lille)のオペラ劇場でのフルーティストに就任の後、カレ(Calais)の音楽学校でフルートとソルフェージュの教職に就く(1950~1956)。その間、1954年にはジュネーヴ国際コンクールで優勝、1956年にギャルド・レピュブリケーヌ管弦楽団に入団し、1962年からはランパルが去ったパリ・オペラ座に1991年まで在職。
1977年からはパリ音楽院でマリオンの片腕としてアシスタントを務めるほか、パリ市10区音楽院をはじめ、ニース・アカデミー、カナダのドメーヌ・フォルジェ、ローマのアカデミア・イタリアーナ、京都フランスアカデミーなど、世界中で長年、定期的にマスタークラスを行なう。
こうして、パリ・オペラ座で演奏し、パリ音楽院や世界中で教えるというクラシック音楽界の王道を歩む傍ら、スタジオ・ミュージシャンとしてピアニスト、フルーティスト、アレンジャー、そして作曲家と、まさに八面六臂の活躍をしてきた氏の人生は、氏でしかあり得ず、リスペクト以外の言葉が見つからない。
今回は、あらためて氏の卒寿を祝い、また氏がどのようにしてジャズ・ミュージシャンの道を歩んだのか、その出会いとギオー氏にしかできなかった偉業を紹介し、その功績を讃えたい。

カナダのドメーヌ・フォルジェでカナダのドメーヌ・フォルジェで、ギオー氏作曲の『Marion suite』をマリオン氏(右)とともに演奏

(次のページへ続く)
・ギィ・ペデルセンとの運命的な出会い
・パリで腕試し
・パリのスタジオ

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