オカリナ記事 “できないことが当たり前”と気づいて、広がった指導者としての道
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もうひとつのOcarina物語│第26回 特別編 Seiko(葉山青子)─前編─

“できないことが当たり前”と気づいて、広がった指導者としての道

日本のOcarina界をけん引してきた植田篤司氏をナビゲーターに、Ocarina界に貢献してきた人物や団体を紹介していく「もうひとつのOcarina物語」。今回は特別編前編として、台北、兵庫、東京をオンラインで結び、台湾で活躍中の日本人Ocarina奏者 Seiko(葉山青子)さんに話を聴いた。

 

 

Seiko

Profile
Seiko(葉山青子)

沖縄県那覇市出身。幼い頃から音楽に触れ合い、高校時代には、沖縄県リコーダーアンサンブルコンクールで金賞を受賞。台湾大学を卒業し、台湾に定住。2010年から数年間、台北オカリナ楽団、Rubato オカリナ楽団、Jokarina に所属し、台湾以外でも、日本、韓国、北京等で演奏。2011年台湾Culture 文化文化杯音楽大賞オカリナ部門第1位を受賞。オカリナ奏者としての実力が認められ、2014年8月に、北京で行なわれたアジアオカリナフェスティバルのオカリナ演奏家名家コンサートで、台湾を代表する演奏家として出演。それ以来、2018年4月のフォーカリンク国際オカリナフェスティバル、同年8月に香港で行なわれた第5回アジアオカリナフェス等でも台湾を代表する演奏家として出演。その他、数々の日台の交流コンサートに参加。2015年から台北市政府付属市立文献館のイベントの企画に協力し、日本時代の建造物である西本願寺で、オカリナFor Fun 音楽会等を2回開催。2016年には同じく西本願寺で個人のコンサートを開催。日本のアーティスト、Pepe Shimada とのコラボを始めとし、様々な音楽活動を行ない、2017年には、台湾の有名なミュージシャン江美琪さんの“親愛なる世界”という曲のオカリナパーツを演奏し、「恋はドキドキ~ Memory Love」というドラマの挿入歌として採用されている。

 

高校を卒業して台湾へ

植田
Seikoさんと私が出会ったのは8年前くらいですね。台中で行なわれた日台交流音楽会でした。その音楽会でオカリナの即売会をやっていたのですが、あいにく手持ちがないため銀行に行かなければと。でも中国語もしゃべれないし……と、あたふたしているところに、「私が一緒に行ってあげる」とスポーティなファッションのSeikoさんが現れて、愛車のジープに乗せて連れて行ってくれたんですよね。最初は台湾の人かと思っていましたから、日本語を話されてびっくりしました。
Seikoさんはいつから台湾に?
Seiko
高校を卒業するまで沖縄の那覇に住んでいて、卒業後台湾に行きました。高校2年生のときに友人と台湾へ旅行に行ったんです。もともとはアメリカに行きたかったのですが、遠いし、危ないといって親が許してくれなかった。台湾は沖縄から行くと飛行機で1時間だからとても近いんです。その旅行がきっかけで高校卒業後は友人たちと一緒に台湾に留学しました。
植田
音楽は沖縄にいたときからやられていたのですか?
Seiko
子どもの頃ピアノを習っていたのですが、中学でバスケ部に入りピアノもやめました。高校では陸上部に入りましたが、なぜか音楽の先生からリコーダークラブに連れて行かれ、楽器を渡され、コンクールに出て金賞を取りました。
植田
オカリナを始められたのはいつですか?
Seiko
もともとリコーダーをやっていたので、オカリナの音色は大好きでしたが、台湾に移り住んでから始めました。ある日、ストリートでオカリナを吹いていたミュージシャンに友人が声をかけて、私も紹介してもらって、その方にオカリナを教えてもらうことになったんです。ところが、その先生からは半年くらい経ったところで「もうお前に教えることはないよ」と言われてしまいました。先生は宗次郎さんのような音色に憧れて手作りでシングル管を作っていて、もともとはギタリストだったんです(笑)。
その後は遊學志さんがやっていらっしゃる台北オカリナ楽団、クーロンさんから誘ってもらってRubatoオカリナ楽団などに入って活動していました。

 

インタビューはさらに続きます。全文は本誌Ocarina Vol.34でお楽しみください。

 






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