サックス記事 Jフュージョンへの歴史とスター・プレイヤーたち
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THE SAX vol.116 Special Contents-2

Jフュージョンへの歴史とスター・プレイヤーたち

HISTORY

1970年代後半から80年代前半にかけて世界的な大ブームとなったクロスオーバー〜フュージョン。日本ではそれが独自に発展してJフュージョンと呼ばれる個性的なジャンルが確立されていった。そして近年はYouTubeなどの動画配信サイトや各種SNS経由で、シティ・ポップに続いて海外のファンが増え始めている。今回の付属ダウンロード音源はその歴史的名曲を厳選。この機会にサックス奏者が主役であることも多い世界に誇るべきJ-FUSIONの魅力を再考してみよう。

世界に冠たるJフュージョンを創り上げた
個性豊かなスター・プレイヤーたち

まずはJフュージョンという独特なジャンルが確立するに至った過程で、大きな貢献を果たしたサックス奏者たちを紹介していこう。(文:金澤寿和)

 

貞夫 Sadao Watanabe

高卒後の1951年に上京し、ジャズ・クラブで演奏開始。穐吉敏子やジョージ川口との共演を経て61年に初リーダー作を発表し、翌年バークリー音楽院に留学。チコ・ハミルトン、ゲイリー・マクファーランド、ガボール・ザボらとの交流で、ボサノヴァやアフリカ音楽など音楽観を広げた。65年の帰国後は、日本ジャズ・シーンを牽引。77年作「マイ・ディア・ライフ」からフュージョン路線に踏み込み、続く「カリフォルニア・シャワー」のヒットとCM出演でお茶の間に浸透した。83年作「フィル・アップ・ザ・ナイト」は、全米ジャズ・チャート首位を獲得。

 

介 Kousuke Mine

63年から本格的にライブ活動を始め、69年に菊地雅章グループへ加入して脚光を浴びる。70年代に入り、立て続けにリーダー作を発表。元々はアルトサックスをプレイしたが、ジョン・コルトレーンに心酔し、70年代初頭からテナーも吹くようになった。2年間の渡米を挟んで、75年に自己グループ結成。78年に本田竹廣らと結成したネイティヴ・サンは、クロスオーバー/フュージョンのスーパー・グループとして人気を沸騰させ、モントルー・ジャズ・フェスティヴァル出演など、世界的評価を得る。現在も自己グループなどで精力的に活動中。

 

真文 Mabumi Yamaguchi

70年代初頭、渡米直前の川崎燎グループやジョージ大塚クインテットで台頭。76年の初リーダー作発表と同時期に、鈴木宏昌(Pf)の新グループ:コルゲン・バンドに参加し、クロスオーバー・スタイルを追求。79年のザ・プレイヤーズ発展後もジョー・ザヴィヌル好きの鈴木、ウェイン・ショーターを研究する山口の二枚看板は不動で、和製ウェザー・リポートと称された。しかしジョージ大塚が海外プレイヤーと組んだマカライボのツアー参加を機に、グループ離脱。近年は佐藤允彦グループ、自己クインテットなど、マイペースで活動を続ける。

 

英史 Hidefumi Toki

高校時代にプロ入りし、鈴木勲、宮間利之とニュー・ハード、日野皓正、川崎燎、板橋文雄らと共演を重ねたアルト/ソプラノ奏者。70年代から30年以上も山下達郎のツアーに帯同したのと併行して、松岡直也WESINGでも活躍。80年代後半からは山岸潤史(Guit)や続木徹(Key)らとチキンチャックを組み、ソウル・インストで人気を集めるなど、ジャズに止まらぬ幅広い音楽を示した。初リーダー作を発表したのは75年で、サンバ・グループやフュージョン・ユニットを率いての作品も。21年6月にガンのため71歳で死去。長女は人気シンガーの土岐麻子。

 

たけし Takeshi Ito

T-SQUAREの看板サックス奏者。日本大学芸術学部在学中より本格的に活動を始め、併行して日大の名門ビッグ・バンド:リズム・ソサエティ・オーケストラに所属して活躍。卒業後の77年、安藤正容が立ち上げたザ・スクエア(当時)に加入し、78年にレコード・デビューを果たす。以後メンバー交代を重ねつつも、自身のCM出演、F1のテーマとなった『Truth』のヒットなどが出て、人気を獲得。91年にはグループを離れてソロに転向するも、00年に復帰。以後グループとソロを並行させて活動を続ける。ウインド・シンセサイザーの使い手としても有名。

 

MALTA マルタ

70年代にバークリー音楽大学を卒業し、同校講師を経て、ライオネル・ハンプトン楽団のコンサートマスターを務めた本格派。83年に帰国し、日本デビュー。スマートなフュージョン・サウンドと楽しいキャラクターとのギャップが受け、TVバラエティ番組に出演するなど、一躍人気者となった。ゼロ年代からは後進の育成に力を注ぎ、14年に東京藝術大学音楽学部客員教授に就任。昨年は出身地である鳥取県米子市に「MALTA音楽学校」を開校した。併行して自身で設立したレーベルを拠点に、精力的なリリースを続けている。本名は丸田良昭。

 

靖晃 Yasuaki Shimizu

70年代半ばから日野元彦や杉本喜代志、向井滋春、佐藤允彦、渡辺香津美らのグループで注目され、フュージョンや歌モノでも活躍。78年にソロ・デビューし、和製マイケル・ブレッカーと騒がれた。が、実は、作編曲にも才を発揮するマルチ・タレント。笹路正徳(Key)らと結成した先鋭的実験ユニット:マライアは、最近注目されるバレアリック・サウンドの先駆として世界的評価の的になっている。マライア解散後はサクソフォネッツなるユニット名でスタンダード素材の現代表現に挑戦。今も現代音楽の作編曲・プロデューサーとして創作を続ける。

 

ひさあき Hisaaki Kanzaki

大学卒業後、天野清継(Guit)、入江宏(Key)らと神崎オン・ザ・ロード結成。80年に「OPEN MY MIND」でデビューし、立て続けに2枚のアルバムをリリース。それぞれゲストに山岸潤史(Guit)、マイク・マイニエリ(Vib)らが参加している。その後渡米し、88年にラス・フリーマンがサウンド・プロデュース&アレンジ、デヴィッド・ベノワ(Key)、デヴィッド・ガーフィールド(Key/カリズマ)、フィル・ペリー(Vo)らをゲストに迎えたアルバム「KANZAKI」発表。帰国後はライブ活動のほか、数々のテレビ、CM音楽制作、プロデュースなどを行なっている。

 

俊之 Toshiyuki Honda

大学在学中の78年に、シーウインドとの共演による初リーダー作「BURNING WAVE」で華々しくデビュー。フュージョン時代を象徴するサックス奏者として注目され、ソロ作を重ねながら、チック・コリアやフレディー・ハバードら著名ミュージシャンと共演する。作編曲家としても多彩で、映画音楽やTVドラマ、CM音楽を数多く手掛けており、中でも映画「マルサの女」シリーズを筆頭とする伊丹十三監督作品のサウンドトラックが有名。近年は吹奏楽にもチャレンジし、東京藝大スペシャル・ウィンド・オーケストラとのコラボ・アルバムなども。

 

雅人 Masato Honda

ハイパー・サックスの異名を取る超絶技巧派。国立音楽大学サクソフォン科入学と前後してプロ活動を始め、大学のビッグ・バンドで山野ビッグ・バンド・ジャズ・コンテスト(83年)最優秀賞を受賞。原信夫の目に止まり、シャープス&フラッツに加入してソリストを務めながら、角松敏生や安全地帯、渡辺美里、谷村有美らをサポートした。91年に伊東たけしの後任としてT-SQUAREに参加し、98年までフロントで活躍。その後独立してソロに転じ、自身の活動、セッション・ワークに加え、昭和音楽大学客員教授として後進の指導にも当たっている。

 

一樹 Kazuki Katsuta

1966年、神奈川生まれ。DIMENSIONのフロントマン。19歳の時にプロ・デビューし、92年に増崎孝司(Guit)、小野塚晃(Key)と共にDIMENSIONを結成。2020年からは増崎と勝田のデュオ編成に移行するも、現在までに33枚のアルバムを出し続け、カシオペアやT-SQUREに肩を並べる存在になった。セッション活動の傍ら、ソロ名義で3枚、本人プロデュースによるユニット“JAFROSAX(ジャフロサックス)”名義でも4枚のアルバムをリリース。デヴィッド・サンボーンに強く影響された、力強くもメロディアスなアルト・サックスのブロウに定評がある。

 

香織 Kaori Kobayashi

1981年、神奈川県生まれ東京育ち。ピアノ講師の母親の影響か、中学の吹奏楽部でフルートを始め、高2でアルトサックスに転向。00年に洗足学園音楽大学ジャズコースに入学し、都内ライブハウスで演奏スタート。卒業後05年にデビューし、10枚超の作品を発表。台湾や韓国、中国、タイでも高い人気を誇る。キャンディ・ダルファーの世界的人気獲得後、真っ先にメジャー・デビューした女性サックス奏者であり、いま数多く活躍する女性プレイヤーたちの先駆者的存在。昨年は松任谷由実の全国アリーナ・ツアーのサポートで大活躍した。

 
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