サックス記事 サックス史70年にみる楽器の発展
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THE SAX 71号 特集1 〜躍動するサックス史70年(後半)

サックス史70年にみる楽器の発展

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サックスの発展に多大な貢献をした3大メーカーにフォーカスして、戦後70年、発展の道のりを辿った。

戦後サックス70年の歴史の中で、アーティストと共にサックスという楽器そのものも大きく発展してきた。THE SAX 71号 特集1では、3大メーカーとそれに携わる重要人物にフォーカスし、サックス発展の道のりを辿った。ここではその一部を紹介しよう。


①ヤマハらしさを持つサックスを追い求めて

ヤマハ株式会社の楽器開発が多大な貢献をしたことは言うまでもないだろう。 THE SAX 71号では、ヤマハサックスの歴史を紐解きながら、昭和40年代から長年に渡ってサックスの設計に携わってきたヤマハOBの佐藤総男さんにお話を伺った。国産サックス第1号、ヤマハのサックス第1号YAS-61から62シリーズ、カスタムシリーズまで、受け継がれてきたストーリーを垣間見ることができる。
(取材協力:ヤマハ株式会社、株式会社ヤマハミュージックジャパン)

 

ー現在、ヤマハは国内だけでなく世界の三大メーカーの一つとして高い評価を得ていますが、61シリーズから関わってきた佐藤さんが開発の歴史を振り返ってみて、ターニングポイントはどんなところだったと思いますか?

佐藤:やはり方針の決め方が大きかったと思います。例えば、明るく バランスの取れた音色、音程の確かさ、人間工学に基づいたキィ形状など「ヤマハとしてどんな楽器を製作し、販売するか」それを決めた時がターニングポイントだったのではないでしょうか。それから、アーティストとの関わりも大事なことだったと思います。特に、ルソーさんをアドバイザーとして迎えたことは一番大きな出来事でした。アーティストの感性に触れ、それをどう汲み取ってヤマハのコンセプトとすり合わせていくか、それが素晴らしい楽器を生み出す上で重要なことだと思います。

インタビューに応じてくれたヤマハOB佐藤総男氏。思い出深いYAS-62とともに さとうふさお:1966年(昭和41年)日本楽器製造株式会社(現在のヤマハ株式会社)入社以来管楽器研究課において、サクソフォンの設計を担当。1967年発売のヤマハのサックスとしての第1号モデル(AS-1)の製品化に関わる。その後、61シリーズの開発を経て、62シリーズの研究開発(ソプラノ~バリトンサックス)に従事。1983年から1984年にかけてバリトンの生産ラインが埼玉工場にあったことから埼玉へ約1年間赴任。1984年浜松の本社に戻り、管楽器設計課においてカスタムモデルの開発に着手し、以後1994年までサクソフォンの研究開発に携わる。2008年定年退職。

 

 


②日本でのセルマーの発展は野中貿易の努力にあり

1885年にヘンリー・セルマーがセルマー・パリ社を創業し、リードやマウスピースの生産を始めた。その後、最初のサクソフォンは1921年12月31日に誕生する。“モデル22”のアルトだ。そして戦後の日本にはセルマーの代理店が数社存在したが、1972年に集約され、野中貿易が日本総代理店となる。その後、日本国内での販売数は飛躍的に向上し、全世界でのトップセールスを記録しているアメリカと肩を並べるまでに成長を遂げている。そんな日本におけるセルマーの歴史を(株)アクタス代表取締役の廿楽文彦氏に語っていただきた。
(取材協力:野中貿易株式会社、株式会社アクタス セルマー・ジャパン)

 

ー1986年にはスーパーアクション80 シリーズⅡが登場します。スーパーアクション80からの変更点、開発の経緯、主な特徴を教えてください。

廿楽:スーパーアクション80からシリーズⅡになると大幅な変更がなされました。シリーズⅡが登場する4年ほど前にセルマー・パリ社から「スーパーアクション80の評価をしてほしい」という話がきました。ここで私は改善するべき点をレポートにまとめたんです。キィノイズ、パッドの防水、ベルと2番管の接着方法、トーンホールの歪みなどで、すべて採用されました。そのえ後、セルマー・パリ社から「もっと詳しく教えてほしい」と言われ、1984年に本社を訪れました。モデルチェンジするまで毎年、約3週間フランスに行っていました。私が開発に携わることができたのも、日本をアメリカと二分するほどの市場に押し上げた野中貿易の努力が大きかったと思います。その感謝の気持ちとして、セルマー・パリ社は1993年7月19日に製造された、50万本目となるシリーズⅡ・アルトの金メッキを極東総代理店の野中貿易に贈呈しました。


フランス・パリのセルマー本社にあるアトリエ

 


③エリモナでヤナギサワ・オリジナルに

創業者である柳澤孝信氏が柳澤管楽器を本格的にスタートさせたのは戦後のこと。以後、第1号のT-3から現在のWOシリーズを世に送り出し、今ではサクソフォーンの世界三大メーカーにまで発展を遂げている。そんなヤナギサワの今日までのあゆみを、現・代表取締役の柳澤信成氏と、柳澤管楽器の生き字引とも言える5名に語っていただいた。
(取材協力:株式会社柳澤管楽器、株式会社プリマ楽器)

 

ーさらに、1979年には80、88シリーズのエリモナが誕生しました。40、50からの改良点、特徴を教えてください。

関野:80、88の前に60、70もあって、60はキングのようにネックとベルを銀にしたモデルで、70は彫刻を増やしたものでした。そのあとエリモナを開発したんだけど、80がスタンダードモデルで、88は上位機種ですね。

島田:40、50から80、88に変わったとき、テーパーの形状やトーンホールの位置、管の太さも見直しました。

柳澤:これまではブッシャーとコーンを組み合わせたものでしたが、80、88でようやくヤナギサワオリジナルになった感じ。このエリモナという名称はエリート(選ばれた者)と、モナーク(王)を組み合わせた造語。80、88から素材は日本材と輸入材を組み合わせて使ってましたね。それまではずっと日本材だけだったから。