サックス記事 恩師リー・コニッツへ捧ぐ鎮魂歌
  サックス記事 恩師リー・コニッツへ捧ぐ鎮魂歌
[1ページ目│記事トップ
THE SAX vol.101

恩師リー・コニッツへ捧ぐ鎮魂歌

ARTIST

モダンジャズ全盛期から長きに渡り、インスピレーション溢れる鋭いプレイを信条としたリー・コニッツが、去る4月15日、新型コロナウイルスが原因でこの世を去った。 即興を突き詰めるかのようなコニッツの演奏は、スタイルこそまったく異なるもののチャーリー・パーカーと双璧をなす存在であった。そんな「アルト最後の巨匠」コニッツにアメリカでの演奏時代に師事し、共演も果たした大森明さんに、コニッツとの思い出や音楽について語ってもらった。


コニッツの「超自然体な演奏姿勢」に惹かれて

大森明
大森さんがコニッツ氏に師事したのはいつ頃のことでしたか?
大森
確か’77年~’78年だね。もともとアメリカ行く前からコニッツにはちょっと興味があった。’74年にバークリーに入って2年間で卒業して、その半年後くらいでNYに移って演奏活動を開始したんだけど、NYでライブを聴きにいったときリー・コニッツがボブ・ムーヴァー(As)という若いプレイヤーと一緒に毎週吹いていた。そこで彼の生の音を聴いて、やっぱりすごいなと感じて直接ライブ後に声をかけたのよ。その頃、自分の演奏がどう吹いても何かおもしろくなかった。他人がすでにやっている、同じようなフレーズになってしまってね。そんな時にコニッツは、いい意味でとりとめのないようなフレーズを吹いていて、これは今まで聴いてきたプレイヤーとは違うな、おもしろいなと思った。周りのプレイヤーからも「コニッツは聞いとけ」と言われたり、「俺はコピーはするけれどコピーフレーズは練習しない」とコニッツの影響をもろに受けているようなプレイヤーもいたりしたね。
リー・コニッツ
Photo by Yuki Tei
コニッツ氏のレッスンはどのようなものでしたか?
大森
大まかにいうとセッションするだけ。楽器を使わずに、スキャットでセッションさせられた時もあったね。『Stella by Starlight』を無伴奏で、転調するところでキーを追えるかヒヤヒヤしながらインプロビゼーションを歌ったよ(笑)。サックスのレッスンとしては特殊だよね。それにしても秘密のおいしいフレーズとかあるのかなと思ったら全然ないんだよね(笑)。もっとも、楽器のおいしいフレーズをやるなんていうことは彼のコンセプトに反するから想像できることだけど。1日の時間の使い方を一生懸命話していたのを覚えているよ。当時のコニッツはパーカーを研究していて、短いフレーズを説明してある薄い私家版の本をレッスンの時にくれたりもした。

次ページにインタビュー続く
・「何も思い浮かばなかったら音を出さなくてもいい」
・ ミンガス相手でも自分を曲げない
・リー・コニッツという大きな存在

登場するアーティスト
画像

大森明
Akira Omori

1949年生まれ、福岡県出身。高校時代よりプロ活動を開始。その後、国立音楽大学、バークリー音楽院に学び、在学中からソロイストとして活躍。卒業後8年間のニューヨーク滞在中チャーリー・ミンガスのレコーディング「Me Myself An Eye」「Somethin’ Like A Bird」に参加。1979年、1982年のニューポートジャズフェスティバルへの出演を初め、数多くのミュージシャンとの共演を通して本格派ジャズメンとしてのスピリットを学ぶ。83年バリー・ハリス、ロン・カーター、リロイ・ウイリアムスをバックに初リーダー作「To Be Young And Foolish」を発表。84年帰国後「Back To The Wood」ではレイ・ブライアントを、「Trust In Blue」では、エルヴィン・ジョーンズをフィーチャー、2001年発表の中牟礼貞則氏をフィーチャーした「PRIMEMOMENTS」は「スイングジャーナル」誌のジャズディスク大賞にノミネートされる等、専門家筋の間でも高い評価を受けている。2006年、New York 録音作「Recurrence」、2009年、前田憲男氏との「Matin’ Time」、2015年、Hod O’Brien との「ManhattanSuite」と、常にハイクオリティーなストレートJazz を追求し続ける。教則本の制作も手がけ2005年、新刊著書「実践、Jazz Adlibシリーズ」が出版され、現在もThe Sax誌に自己の連載コーナーを持ち若手の育成にも力を注いでいる。

[CLUB MEMBER ACCESS]

この記事の続きはCLUB会員限定です。
メンバーの方はログインしてください。
有料会員になるとすべてお読みいただけます。

1   |   2      次へ>      
サックス