トランペット記事 YAMAHA 世界の冠たるブランドとなるまでの歩み
  トランペット記事 YAMAHA 世界の冠たるブランドとなるまでの歩み
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ヤマハトランペットの歩みを川崎憲三氏が語る![前編]

YAMAHA 世界の冠たるブランドとなるまでの歩み

HISTORY

ヤマハ管楽器第1号機YTR-1誕生の年にヤマハへ入社し、のちに国内外のアーティスト対応の窓口となる「アトリエ」(現ヤマハアトリエ東京)の初代室長にも就任した川崎憲三さんにインタビューを敢行。

いまや世界でも指折りのトップブランドとなったヤマハトランペット。しかし、そこまでの道程には紆余曲折、多くの試行錯誤の時代があった。そこで今回は、ヤマハ管楽器第1号機YTR-1誕生の年にヤマハへ入社し、のちには国内外のアーティスト対応の窓口となる「アトリエ」(現ヤマハアトリエ東京)の初代室長にも就任した川崎憲三さんにインタビューを敢行。ヤマハトランペットの歴史を築き上げた当事者による回顧録だ。前編となる今回は、かのレナルド・シルキーがヤマハにもたらした功績を中心に振り返る。オンラインではその一部を抜粋して紹介する。
(協力:ヤマハ株式会社、株式会社ヤマハミュージックジャパン)


川崎憲三氏

1963年にヤマハトランペットの開発が本格的にスタート!

国産のトランペット開発の歴史を遡っていくと、「ヤマハ」(日本楽器製造)とともに「ニッカン」(日本管楽器製造)という名前に辿り着く。まずは、この2社の関係について川崎氏は語り始めた。

川崎 ヤマハの創業そのものは1887年まで歴史を遡りますが、管楽器については社内で研究開発をスタートし商品化を図っていこうという方針で動き出したのが1963年でした。ただ、それ以前から江川楽器製作所という名前で1902年に創業し、その後に社名を変更した日本管楽器株式会社(ニッカン)という会社があり、ヤマハはこのニッカンの経営に1937年から参画していました。そして、ヤマハがニッカンとの協力関係をさらに強めたのが1963年ということになります。研究開発がスタートした当初に、ニッカン設計者はヤマハに移籍され設計陣は一つのチームとして強化されました。

ヤマハの管楽器第1号は、トランペットのYTR-1となった。管楽器の中でまずトランペットをつくるという方針はどのように決まったのだろうか。

川崎 そのことについては詳しくは聞いていませんが、まず管楽器ではトランペットとフルートとサックスに着手するということは決まっていたようですね。強化された設計陣の最初の成果は1965年の秋に発売されたトランペット「ニッカン・インペリアル*」TR-1です。さらにこれをベースに開発した上位機種を翌年の初頭に発売しました。それがヤマハの管楽器としての第1号機であるYTR-1です。TR-1をベースに、より豪華に彫刻などを施しました。 *1970年にニッカンがヤマハに吸収合併されるまでブランド「ニッカン」は併用された。

YTR-1の製作にあたって、アドバイザーやテスターといった役割を果たしたプロ奏者はいたのだろうか。

川崎 金石幸夫さん、福原彰さんとか、いろんな方からアドバイスを受けたようですが、私は当時まだ入社前で、その場所にはいませんでしたから詳しいことは判りません。設計手法や仕様決定のプロセスは判りませんがベル形状が独特でしたね。ずっと細いままできて、先端だけクッと広がっているんです。だから普通のミュートが入らない。何種類かベルの設計、試作をしたと思うんですが、それらを比較するなかで、それが最も先生方の評価が高かったようです。現役の設計のメンバーもYTR-1を吹いていると思うんだけど、どういう印象を受けましたか?

福田 今の楽器とは随分違うなとは感じましたが、細かいところを見ると欧米の楽器からの影響も随所で見えますし、良い楽器を作ろうという気概は伝わってきました。


川崎さんを囲んで(左から)取材に同席していただいたヤマハ株式会社 B&O開発部の和田幸平さん、同じく開発統括部の福田徳久さん、B&O開発部の古海勝彦さん

THE TRUMPET #04本誌では、さらにインタビューは続きます…

●レナルド・シルキー氏と技術援助契約を締結

いまではヤマハの管楽器といえば、最新のテクノロジーを使って製作されるというイメージが強く定着している。では、管楽器製作開始時も、その当時の最新技術や最新の機械等を使った製造を行なっていたのだろうか。川崎氏が約半世紀前の記憶を辿ります。

●シルキーによるスチューデントモデルの開発

手探りの状態からレナルド・シルキー氏とコンタクトを取ることに成功し、技術援助の契約を結ぶに至ったヤマハ。設計陣は彼から多くのことを学びとっていくが、実はシルキー氏にもヤマハで成し遂げたいことがあったのだと川崎氏が明かす。そこでまず着手したのがスチューデントモデルでした。

(左)ヤマハを訪れた際のレナルド・シルキー氏。指導を受けているのは川崎氏

●シルキーが開発した上級モデルのラインナップ

スチューデントモデルYTR-232で大成功を収めたシルキー氏。だが、もちろん彼のミッションはそれだけには終わらなかった。次に取り組んだのが上級モデル。提供してくれた独自のアイデアの数々を川崎氏が紹介してくれました。

●アメリカへ留学しシルキー社で製造技術を習得

1970年に、ヤマハ(当時の社名は日本楽器製造)はニッカン(日本管楽器製造)を吸収合併し、豊岡工場も完成するなど体制が整っていく。そんな時期に川崎氏は2年間の修行を命じられ、アメリカに渡りシルキー氏の元でトランペットの設計や製造技術について間近で学ぶことになります。

●YKとYRという2つのベルを独自に開発

川崎氏が独自に開発したピッコロトランペットを、かのアドルフ・ハーセスが、コンサート本番で使用。この輝かしい出来事に至る経緯を川崎さんが語ってくれます。

●日本へ帰国後は、2回の大きなモデルチェンジに情熱を注ぐ

シルキー社での充実した2年間の修行期間を終えて、1972年に川崎さんは日本へ帰国。そして持ち帰った設計技術が生かされてヤマハトランペットは次のステップアップへ向かっていく。二度のモデル・チェンジで導入した新技術について川崎氏が振り返ります。

●ボビー・シューとの40年以上にわたるコラボレーション

ヤマハトランペットでレナルド・シルキー氏のデザインが息づいた唯一のモデルとなったYTR-6310。その先代モデルYTR-636を愛用していたのがボビー・シューだ。その後ヤマハトランペットの発展に大いに寄与することになる重要人物だが、YTR-6310への移行はスムースに行われたのかを川崎氏に尋ねます。

LAの工房にて(左から)ボブ・マローン氏、ボビー・シュー氏、川崎氏

●アーティストとともに進化し続けるヤマハトランペット

YTR-636からヤマハトランペットを使いはじめたボビー・シューは、その後YTR-6310、YTR-6310Zと開発に携わってきた。そして現在、YTR-8310Zがボビー・シュー モデルとしてラインナップされている。この最新機種の特徴とはいかなるものなのだろうか。

本編はTHE TRUMPET #04の発売をお楽しみに!


川崎憲三(かわさき・けんぞう) 富山県富山市生まれ。1966年日本楽器製造 株式会社(現ヤマハ株式会社)に入社、管楽器研究課に配属され管楽器技術コンサルタント レナルド・シルキー氏(元シカゴ・シンフォニートランペット奏者、シルキー社社長)指導の下、トランペット他、金管楽器の研究・開発をスタート。1970年シルキー氏の招きでアメリカ・シカゴに留学。シルキー社で金管楽器製造技術習得のため研修するかたわら、ルーズベルト大学でトランペットをシカゴ・リリック・オペラ首席トム・クラウン氏に師事。1972年エドワード・タール氏が主宰する「トランペットセミナーinヨーロッパ」に参加、ヨーロッパにおけるトランペットと音楽文化の変遷について研鑽を積む。1977年ヤマハ管楽器「アトリエ東京」を銀座に開設、国内外プレーヤーと身近に接しR&D活動を展開。1988年にはその拠点を米国に移し初代「Xeno」トランペット他金管楽器の開発に成果を挙げる。1998年管楽器研究・開発業務に復帰するとともに後進の指導・育成にも専念する。2008年ヤマハ株式会社退職後も、アトリエ大阪で嘱託として関西金管プレイヤーのサポートや変化するプレイヤーニーズに応えるべくR&D活動を2015年9月まで継続。現在71歳、浜松の自宅工房でトランペットと向き合う時間を楽しむとともに、生涯現役を目指す。

 




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