サックス記事 神崎ひさあき Come to me! │ 第3回
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This issue’s Guest:マイケル・パウロ

神崎ひさあき Come to me! │ 第3回

ARTIST

日本のフュージョン〜スムース・ジャズ・サックスの先駆者として1980年代からシーンを牽引し、デビュー40周年を迎えた現在も国際的に活躍を続ける神崎ひさあき。その神崎をホスト役に、毎回ゲストを迎えてトーク・セッションを繰り広げる連載「Come to me!」。
2021年を迎えた途端に緊急事態宣言が再発令され、対面取材もままならなくなった状況のなか、第3回目のゲストとしてリモートで登場してくれたのは、なんと海外からのビッグ・スター! 神崎の朋友とも呼べるご存知マイケル・パウロだ!!
(文:櫻井隆章)

初対面はアル・ジャロウのバンドメンバーとして来日した際に

まず、お二人がどうやって知り合ったのかを教えてください。
神崎
まず、僕のアルバム「KANZAKI」にも参加してくれたベースのリッキー・マイナーと友人だったんですね。彼はアル・ジャロウとか、ホイットニー・ヒューストンの絶頂期から亡くなるまでミュージカル・ディレクターをやってたのですが、その彼がアル・ジャロウのバンド・メンバーとして日本に来た際に、紹介されたのがパウロで一気に意気投合してセッションしました(神崎さんはマイケル・パウロのことをファミリー・ネームの「パウロ」と呼ぶ)。その後、パウロがジェイムス・イングラム等と来日のたび、それとロサンジェルスでもセッションを繰り返したのです。
神崎さんはロサンジェルスで活動していましたよね。それは何年くらいのことなのですか?
神崎
1986年から87年にかけてです。でも、それからしばらく行ったり来たりを繰り返したので、それから2〜3年程は日本での活動はほとんどしてなくて行方不明状態だったんですよ(笑)。
その頃のスムース・ジャズって、人気でしたか?
神崎
アメリカでは80年代後半からケニー・Gがブレイクし始めて一般的になって来たんだけど、それ以前はクワイエット・ストームと呼ばれていて、その頃の日本ではまったく。日本でスムース・ジャズが認知されて来たのはここ最近じゃないのかな? そう思いますよ。
(ここでマイケル・パウロが画面に登場。いつもにこやかな彼は、早くも満面の笑みだ)
 
神崎
やぁ、パウロ! どう、元気?
マイケル・パウロ
(以下MP)
うん、ゲンキ、ゲンキ!(と、日本語で)

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マイケル・パウロ

マイケル・パウロ
ハワイ生まれ。父はピアニスト、母はシンガーで、兄弟全員が何か楽器を演奏するという音楽一家に育つ。15歳でサックスを始め、高校ではクラブで演奏する。1975年には人気バンドであったカラパナに加入し、79年まで在籍。その間に日本でだけ発売されたソロ・アルバムを発表。81年にロサンジェルスに移り、ルーファスに参加。88年にはメジャーなレコード会社から初のソロ・アルバムを発表、さらに大きな注目を獲得した。使用楽器はアルト、テナー、カーブドソプラノともにヤナギサワサックス。マウスピースはビーチラー7番メタル、リガチャーはヤナギサワのヤニー・シクスを愛用。

神崎ひさあき

神崎ひさあき
日本のフュージョン・ブームをリードした「神崎ON THE ROAD」を結成し、1980年「Open My Road」でデビュー。以降、国内で3枚のアルバムをリリース。1986年に渡米し、1988年、リッピントンズのラス・フリーマンらを迎えアルバム「KANZAKI」をリリース。帰国後、数々のTV番組や映画等のテーマ曲を担当。自作の『So Far Away』(マイケル・ホワイトがリリース)は、全米ジャズ・チャートで第9位に。盟友マイケル・パウロとのプロジェクト“The Asian Soul Brothers”など、グローバルな活動を展開中。http://www.kzsax.com/

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